ルールか世の中の空気か

「授業中ですので帽子は取っておきましょうか。それがこの国でのルールとされています」

200人くらいが収容された講義室で、大学教員がスピーカー越しに話す。別に講義室で帽子をつけていようが取っていようが、誰も困らないことには誰も気が付かない。室内では帽子を取るというのがルールとして形成されているから。

ルールはメインストリーム以外のマイノリティを排除することになる。抗がん剤治療で脱毛が気がかりな人は帽子をかぶればいいが、この教室ではそうもいかない。多くの人が帽子をつけて室内にいるのはおしゃれであり抗がん剤治療とは関係ないのだろうが、抗がん剤治療を受けている人はその状況下では「埋没」できる。

今は薬物乱用防止推進運動の期間の最中だ。「薬物乱用ダメ。ゼッタイ。」といい、心身に影響を及ぼすからとか人生を終わらせるからといった理由をつけて薬物の医療目的外での使用を否定するこの運動は、やはり世の中のメインストリームが「薬物はなにがあってもダメ」だからだ。そういう空気だから、薬物使用者は逮捕されたり、精神科に入院したり、支援施設で病者として生活することになる。私たちは生まれてから薬物乱用は異常者だからああなってはいけないという空気で暮らしてきた。そういうルールがあった。

ルールが正義だろうか。正義とはなにか。東日本大震災発生後からしばらくは「東電社員死ね」すら批判を浴びなかった。おもいっきりのヘイトスピーチなのに。最近安保法反対を訴え新宿で焼身自殺を図った男はなぜ妄想のひどい統合失調症患者として扱われないのか。

そういう世の中の空気だからである。